朝鮮半島に対する米国の軍事力誇示は北ではなく南向け?

このところ朝鮮半島情勢がキナ臭さを増している。アメリカはシリア爆撃が朝鮮民主主義人民共和国に対する脅しでもあることを表明し、空母カールビンソンを日本海(朝鮮東海)に急派して自衛隊との共同訓練も予定されている。

これは近く予想されるという朝鮮の核実験を牽制するためだとも言われるが、「強硬には超強硬で立ち向かう」という従来の共和国の外交スタイルに変化を与えられるとも思えない。プエブロ号事件板門店ポプラ事件の際に第二次朝鮮戦争の崖っ淵まで軍事圧迫をかけても、共和国は折れなかった。アメリカ側も、そのことは重々承知していることだろう。

むしろ今のアメリカの強硬姿勢は、流動的な韓国政治を念頭に置いたものではないか。5月の大統領選挙で共和国に融和的な政権が誕生することを妨げるため、戦争の脅威を思い知らせることで、韓国世論に圧迫を加えているのではないだろうか。

事実、ここにきて開城工業団地の早期再開に反対し、サード(高高度ミサイル防衛システム)配置を認めるアン・チョルス候補の支持が急速に伸びている。

朝鮮半島の安保危機を煽ることで、韓国世論を右旋回させようというアメリカの政治的演出という可能性も視野に入れた上で、朝鮮半島全体の情勢に注目していきたい。

朝鮮研究においては合法的な公開情報の分析が大切という当然のことを教えてくれる、三村氏インタビュー

「百聞は一見にしかず」ということわざの意味が身に染みてわかったのは、2003年に初めて朝鮮民主主義人民共和国を訪れたときだった。それまで自分なりに朝鮮のことを勉強してきたつもりだったが、自分の目で見ると、日本での報道がいかに偏ったものであるかを実感することができた。

朝鮮経済の専門家である三村光宏氏のインタビューが朝日新聞(2017年2月16日付)に掲載されていた。三村氏は、私も一度お話しをうかがったことがあるが、40回も訪朝して自分の足で現地の情報を直接収集している、日本では数少ない地に足の付いた朝鮮研究者の一人である。

日本では残念ながら、出所のわからないセンセーショナルな「秘密情報」が、マスコミでもてはやされる傾向がある。それらの「情報」は一面の事実に基づくものもあるが、「北朝鮮崩壊」への期待や報酬目当てで誇張されていたり、体制への嫌悪感が先立つがゆえの誤解も多い。「崩壊論」が叫ばれ出してすでに20年以上が経過していることや、「粛清」されたはずの有力者がしばしば生き返ることからも、「裏情報」のレンズを通した像の歪みがわかる。

北朝鮮ではどうせ自由な取材などできない」「公式発表は信用できない」などと言って、はなから合法的な情報収集の努力を怠る「ジャーナリスト」や「専門家」も多い。たしかにアメリカという超大国と戦争し、いまだに「休戦中」にすぎない朝鮮においては、情報アクセスに大きな制約があることも事実だ。しかし、裏ルートからもたらされる「情報」の断片をいくら集めても、人間が暮らす等身大の朝鮮社会の姿は遠ざかるばかりだろう。

ジャーナリズムや学問の基本は、自分の目と耳と足でこつこつと正確な情報を集めることだ。公開情報を合法的に収集して分析する正攻法が、朝鮮の実像を理解するうえにおいても十分に有効であることを、三村氏のインタビューは示していると思う。

以下、朝日新聞のインタビューからの一部を引用。

――

 ――三村さんは北朝鮮に定期的に入り、足元の経済状況の観察を通じ、国の状態を分析しています。制裁下の北朝鮮がなぜ核開発を続けられるのでしょう?

 「実は北朝鮮の経済は一定程度は安定しているのです。北朝鮮ではここ2年ほど、1ドル(約114円)=8千ウォンというレートが続いていることが証左です。北朝鮮は1998年ごろから『人民が給料で食べられるようにする』ことを目指してきましたが、徐々に実現しつつあると見ていいでしょう」

 「首都の平壌では今、市民の平均月収に企業によってばらつきがあります。40万ウォン(約5700円)程度もらっている人もいれば、給料が高くない場合には、米を安く買える権利などがついていたりします。米は1キロで5千ウォン(約70円)、冷凍イワシは1キロで4千数百ウォン(60円前後)ほど。世帯収入で40万〜50万ウォン(約5700〜7100円)ぐらいもらえば、給料だけでそれなりに食べていける状況でしょう」

 ――移動が制限される北朝鮮でどう調査しているのですか。

 「スーパーを見て回ったり、食堂に入ったりし、消費の動向を見ます。両替所にも足を運び、日本であらかじめ集めておいた情報とも突き合わせる。政府系研究機関である社会科学院の研究者たちとの意見交換からも、北朝鮮の考え方や変化を知ることができます。北朝鮮の国民には今、現政権への期待があると感じます。国民に、経済が向上している実感があるのでしょう」

 ――それは現政権の統治スタイルが奏功している部分もあるのでしょうか。

 「金正恩委員長はプロパガンダにたけています。プロパガンダ重視とは悪く言えばごまかしが得意ということでもある。彼はとにかく国民を鼓舞し、高層マンション群やスキー場など、目に見える形の新たなシンボルを造っている。『社会主義文明国』になるというスローガンでかっこいいもの、世界の趨勢(すうせい)について行くもの、他の国と遜色ないものを造る意識が強く、国民にアピールしています」

 ――現政権は経済発展だけでなく、核開発も進める「並進路線」を掲げています。実際は、どちらに重きがあるのでしょうか。

 「金正恩委員長が打ち出した並進路線には、限られたリソースを経済開発に振り向ける、予算も人的資源も軍事から引きはがしてくるという含意があると見ています。それだけ経済を重視している。国の守りは核抑止力に頼り、軍人という人的資源は経済のために使えるという意味合いもある」

 「軍事を最優先する金正日総書記の先軍政治は、軍に頼らざるを得ない非常時の体制でした。現在は、非常時から通常時の政治に戻す過程です。平壌や羅先を見る限り、街の建設を含めて以前よりよくなっているように見えます。ただしこれは危機から通常に戻りつつあるだけで、飛躍的な経済の向上ではありません。核・ミサイル開発をめぐる制裁のもとで、それは無理な話です」

 ――経済が大きく向上しないなかで、この状況を長く続けることはできないのではないですか。北朝鮮の体制が崩壊する可能性は?

 「崩壊する前提で物事を考えると、国際社会は対処を誤るでしょう。崩壊の可能性がないとは言いません。崩壊に伴う様々な事態に備えることにも意味があるでしょう。ただ私は、経済的に立ちゆかなくなって体制が崩壊するというシナリオは現実的ではないと見ています。北朝鮮は国際社会からの制裁をかいくぐってどう生き延びるのかのいわばプロ、打たれ強いのです。とはいえ、核問題を解決しなければ経済は現状維持か、年数%の成長止まりでしょう」

 ――厳しい経済下でも、なぜ核開発にこだわるのでしょうか。

 「北朝鮮は、米国からの攻撃や韓国による吸収統一を防ぐためには、核兵器で自国を守るしかないと考えているのです。通常兵器で自国を守れるだけの資金も力もない。多数の軍人の生活を保障する必要がない核兵器は、通常兵器よりはるかに安上がりなのです」

 「米国のオバマ政権がとった『戦略的忍耐』という政策は機能しませんでした。戦略的忍耐という名の無視は、8年経って北朝鮮の核・ミサイル能力が圧倒的に高まった現状を見れば大失敗だったように見えます。金日成主席の死去に際し、2代目の金正日政権はすぐに倒れるだろうという米国の見通しはまったく外れた。3代目の金正恩政権でも同じ態度で、無視を続けた結果が今の状況です」

どちらが「挑発」している?

今日(2017年2月12日)、朝鮮民主主義人民共和国のミサイル発射を受けて、日本では「明らかな挑発行為」(菅官房長官)などとして大騒ぎし、テレビでは日曜の朝からテロップで速報を流していました。

一方、アメリカが2月8日にカリフォルニアの空軍基地から核兵器搭載可能なICBMミニットマン3」を発射したことについてはほとんど報道されていないようですね。このたびの発射は、ミサイルの正確度をテストし、効果的な核抑止力のためのデータ確保を目的としたもの、だそうです。
http://www.military.com/daily-news/2017/02/09/air-force-test-launches-minuteman-missile-california.html (英語)
http://www.huffingtonpost.kr/2017/02/10/story_n_14674082.html (朝鮮語)

また、2月4日にはハワイ沖で、日米共同開発した新型迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」の発射実験を行っていますが、これもあまり大きな話題になっていません。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017020900134&g=soc

さて、朝鮮と日本・アメリカ、「挑発」しているのはどちらなのでしょうか。朝鮮とアメリカの核とミサイル、どちらが人類にとって大きな脅威なのでしょうか。

「どちらのミサイルもけしからん」という良識的な意見もあるでしょう。もっともな意見ですが、では、なぜこれほどメディアの扱いに違いがあるのでしょう。

北朝鮮」は何をやるかわからない、から? では、朝鮮とアメリカ、どちらがこれまでにたくさん人を殺してきたのでしょう。実戦で核兵器を使ったのはどちらの国でしょうか。
朝鮮とアメリカ、「何をやるかわからない」のはどちらの国でしょうね。

朝鮮の核実験に対する日本のメディアの反応と植民地主義


 朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮*1)は1月6日に「水爆実験に成功」したことを発表し、続く2月7日には地球観測衛星光明星4」号を打ち上げた。それに対して日本の新聞各紙は朝鮮を非難する論調一色になった。本稿では大手新聞の社説を中心に、沖縄の地方紙、日本共産党機関紙などを参照しつつ、日本のメディアが朝鮮の核実験とロケット打ち上げおよび金正恩体制をどう見ているかを探り、それを通して日本人が朝鮮に対して抱いているイメージがメディアの論調にいかに反映しているかを考えてみたいと思う。

【“乱暴”で“身勝手”で“非常識”な“北朝鮮”の“暴挙”】

 核実験が実施された翌日の1月7日、『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』、『産経新聞』、『日本経済新聞』等、大手全国紙はいっせいに関連社説を掲載したが、その内容はおおよそ次のように集約される。まず(1)朝鮮の核実験を非難し、(2)核実験に至った要因と朝鮮の政治体制などの背景について説明し、(3)朝鮮の内政への影響を分析し、(4)国際社会と日本の対応を提言する、というぐあいである。
 最初に各紙が核実験をどのように非難したかを見てみよう。朝日と産経の社説の出だしはそれぞれ「愚かというほかない。限られた国の資源を誤った国策にそそぎ、国際的な孤立をさらに深めるだけの暴挙である」(朝日)、「許し難い暴挙である。……あらゆる手段を講じて、北朝鮮の暴走を阻止しなければならない」(産経)と怒りをあらわにする。それ以外の各紙も「制裁決議に違反する暴挙は、断じて容認することができない」(読売)、「北東アジアの安全保障環境を揺さぶる重大な事態である」(毎日)などと朝鮮を一方的に論難する内容であり、そこに独自の論調の違いを見いだすのは難しい。
 とくに安倍政権の防衛政策に対する評価では両極にあるはずの朝日と産経が同じように「暴挙」と「暴走」という最大級の非難の言葉を並べて朝鮮を批判しているのが目を引く、一言で言えば、“朝鮮には朝鮮側の立場性と論理があり、それに従って彼らなりに「合理的」に行動しているのかもしれない”、という想像をしてみる姿勢が欠けているのである。
 次に、核実験に至った朝鮮側の要因と背景について、各紙はどう見ているのだろうか。朝鮮が核実験を行った動機について主要紙の多くが、「最も重視する米国との交渉を始めたいという思惑だろう」(朝日)、「米国との対話の再開を目指したものとの観測もある」(読売)などと、アメリカを対話に引きずり出すための交渉カードとして捉えている。
 また核実験のタイミングや背景について、朝日は「実験は唐突だった。過去3度と比べても乱暴さが際だった」などと、その暴力性と予測不可能性を読者に印象づけている。読売は、「幹部を相次いで粛清する『恐怖政治』で権力維持を図る金第1書記が、独断専行に拍車をかけている」と、独裁体制が核実験の背景にあると見ているようだ。それ以外の各紙も「閉鎖国家」(毎日)、「無法国家」(産経)などのレッテルを貼っている。つまり、「北朝鮮」は“乱暴”かつ“身勝手”で“常識外れ”な国だから、国際的非難を浴びても核実験を強行する、というわけだ。
 アメリカとの交渉カードという見方は、一つの有力な推測ではある。実際、昨年秋には朝鮮側がアメリカ側と極秘に接触し、朝鮮戦争の休戦協定を平和協定に切り替えるための交渉を提案していたことが明らかになっている。だが、もっと単純に考えれば、朝鮮が最も必要としているのは国の安全ではないのか。全国紙以外ではわずかに東京新聞(東京の地方紙)が、「米国など敵対勢力の核の脅威に対する自衛措置であり、敵視政策がなくならない限り、核開発の中断、放棄はしないと主張した」という朝鮮側の言い分を紹介している。それを正面から受け止めるなら、日本や韓国のように“核の傘”を持たない朝鮮が「限られた国の資源」と引き換えに核抑止政策に走るのは(核廃絶の理想が正しいことは当然としても)それほど不思議ではないだろう。
 では、各紙は核実験が朝鮮の内政にどのような影響をもたらすと考えているのかを見ていこう。まず朝日新聞金正恩政権にこう忠告する。「核武装は無謀な体制の維持に何ら役立たない。むしろ破滅へと導く逆効果しか生まない」。毎日新聞も「国際社会から孤立したままでは経済成長にも限界がある。無謀な行動は結局、自らを苦しめることにしかならない」と批判する。
 しかし、なぜ核兵器保有が体制を「破滅へと導く逆効果」となるのか、その根拠はいささか曖昧だ。もし核武装は破滅への道だとする朝日の忠告が正しいとするなら、すでに2006年の第1回から数えてこの10年間に4回にわたって核実験を行っている朝鮮は、いまごろ「破滅」していてもおかしくないが、そうなっていないのはどういうことか。
 朝日新聞自身、同じ社説の中で「北朝鮮経済は徐々に回復しており、特に首都・平壌は建設ラッシュや多くの物流で活気づいている」「金正恩政権は、父の正日氏時代には一度もなかった党大会を開くと宣言している。党内基盤を確立したという自信があってのことだろう」と、朝鮮の政治経済状況の安定・回復ぶりを説明している。毎日新聞も「北朝鮮の技術では不可能と思われていたことが、次々と現実になっているようだ。金正恩体制の北朝鮮は、核開発と経済建設を同時に追求すると宣言している。北朝鮮の能力への警戒を怠ってはならない」と、朝鮮が制裁の中で核武装と経済の立て直しを並行して実現してきた事実に驚きを示している。
 なぜ両紙はこのような矛盾したことを言えるのだろうか。日本のマスメディアはいまだに、金日成主席の死去以来、唱えられきた「北朝鮮崩壊論」に今も思考を縛られており、事実を積み重ねて朝鮮の現実を分析するというより、願望混じりの推測をもとに論理を組み立てているように見える。

【にもかかわらず“制裁”あるのみ】

 ただ、新聞各紙もこれまでの制裁が効果をあげなかったことは認識しているようだ。どの新聞も日米韓の連携によって中国を説得し、朝鮮を包囲すべきだとの主張では一致している。「(中国は)言葉だけでなく、厳しい行動でこそ北朝鮮指導部をいさめるべきだ」(朝日)、「国際社会による制裁措置の実効性を担保するためにも中国の役割は大きい」(毎日)「北朝鮮への圧力を強める観点でカギとなるのは、中国である」(読売)と、各紙は口をそろえて中国への“期待”を表明している。
 裏を返せば、制裁の実効性を担保するためには中国に頼るしかないわけで、日米韓にはもはや実効性のある手段が残されていないことを意味する。日本政府は2月10日、人、物、金の流れをほぼ完全に止める、独自制裁措置の強化を決定した。しかし、すでにこれまでの制裁の結果として、日本への船舶の寄港や朝鮮国籍者の入国は皆無に等しく、輸出入も途絶えて久しい。今回の措置で唯一「強化」されるのは、朝鮮総連関係者に対する再入国の原則禁止だけだろう。だが、再入国禁止とはすなわち、日本の植民地支配の結果として日本永住を余儀なくされた人々とその子孫が祖国を訪れて親族と再会する機会を奪うことに他ならず、国際人権規約にも反する極めて非人道的な措置だと言える。
 また、制裁とは「兵糧攻め」に他ならず、それが効力を発揮するとしたら、「苦難の行軍」の再現をもたらすわけで、食糧難民流出の影響をもろにかぶる中国がそれを望むことはなさそうに思われる。日本のマスメディアは朝鮮問題に関することとなると、制裁が個々の人々の人権と生活に何をもたらすのかを想像する力さえ失ってしまうようだ。
 さらに深刻なのは、それが中央紙に限らず、いまの日本のあり方に異論を唱えてきたはずの左翼の側も同じ論理に飲み込まれてしまっていることだ。
 例えば日本共産党機関紙しんぶん赤旗はこう主張する。「国際社会は北朝鮮核兵器の開発計画を放棄するよう、いっそう粘り強く、一致した対応を強めるべきです。……軍事でことを構える対応では、地域の平和も核兵器のない世界も実現しません。実効ある措置によって北朝鮮を対話による解決のテーブルに着かせることこそ、北朝鮮核兵器を放棄させ、核実験をやめさせる唯一の確実な道です」。たしかに軍事的対応こそ否定しており、「制裁」との言葉もないが、国際社会の「一致した対応」による「実行ある措置」とは何か。制裁以外には考えられない。事実、これまでの日本の制裁措置は、そのほとんどが日本共産党を含む国会の全会一致で決定されたものなのである。
 こうした「制裁あるのみ」という姿勢は、朝鮮が“常識の通じない無法国家”であるという前提に立ったものだが、そのような認識から抜け落ちているのは、現在の「国際秩序」が大国、中でもアメリカの核寡占体制に基づく“恐怖による支配”によって維持されていることへの批判的視覚だろう。また、朝鮮が朝鮮戦争以来、一貫してアメリカの核先制攻撃の対象とされてきた歴史的事実は、完全に忘却されている。
 朝日は1月6日に発表された朝鮮の声明について、こう批評している。「米国を振り向かせたい思いがにじむ。米国を非難する一方、北朝鮮の自主権を侵さない限り、核の先制使用や技術移転は『しないだろう』と付け加えた。相変わらず独りよがりな対外姿勢がうかがえる」。
 だが、朝鮮戦争停戦協定の第60項には、停戦後に双方が政治会議を3カ月以内に招集し、外国軍隊の撤退および朝鮮問題の平和的解決などの問題を協議することと規定されているにもかかわらず、アメリカは和平交渉を求める朝鮮応じず、韓国に軍を駐留させ続けている。また、核先制攻撃を否定せず、最近では核兵器搭載可能なB52重爆撃機を韓国上空に派遣している。朝日の言う「独りよがりな対外姿勢」は、むしろアメリカに当てはまるのではないだろうか。

慰安婦問題の日韓“合意”は対朝鮮戦略のための“手打ち”式?】

 もう一つ見過ごせないのが、昨年末の従軍慰安婦問題での日韓合意について各紙がいっせいに触れている点だ。「韓国との間の最大の懸案だった慰安婦問題の妥結で合意した……北朝鮮の軍事挑発こそ日韓がともに直面する問題だけに、これまで以上に協力関係を強化していきたい」(朝日)、「日韓両政府は昨年末、慰安婦問題で合意した。関係改善の機運を生かし、協力を深めるべきだ」(読売)、「日韓関係にほころびが目立っていたが、昨年末の慰安婦問題に関する合意を契機に改善の糸口が見えてきた。この流れを3カ国連携の再確認につなげたい」(毎日)、「日韓両国は昨年暮れ、慰安婦問題で合意し、関係改善を進めることを確認した。対北朝鮮での結束を、その成果として示してほしい」(産経)として、従軍慰安婦問題で「合意」した日韓両国が、ともに対「北朝鮮」問題で手を携えることを提言している。
 しかし本来、従軍慰安婦問題の「解決」とは、当事者の人権と名誉の回復、そして日本の朝鮮半島侵略の歴史を反省するためのものではないか。それを分断された侵略被害国の片方(韓国)だけとの「合意」を、もう片方(朝鮮)と敵対するための「結束」の材料として利用するのが当然とする論理は、どこから出てくるのだろうか。まさに慰安婦問題の“不可逆的解決”が人道・人権・歴史清算を目的としたものではなく、日米韓を中心とした東アジア戦略再構築のための“野合”であったことが、図らずも吐露された形だ。

【全メディアが声をそろえて批判した“弾道ミサイル”発射】

 日本のメディアは2月7日の朝鮮の人工衛星打ち上げに対し、むしろ核実験以上に激しい反応を示し、報道はさらに画一的になった。これは実際の脅威の重大さに応じたものというより、日本政府が危機をあおったのにマスコミが乗じた面が大きかったように思われる。事前通告のなかった核実験とは違い、衛星打ち上げは朝鮮によって事前に予告されていた。それを“奇貨”として日本政府は「ミサイル」破壊措置命令を出し、ロケットが上空を通過する沖縄県に地対空誘導弾パトリオット(PAC3)を配備した。“北朝鮮のミサイルを迎え撃つ自衛隊”という“絵になる”構図に、マスコミが飛びついたわけだ。以下は主要紙の社説(2月8日付)からの抜粋である。

a)北朝鮮がきのう、人工衛星の打ち上げと称して、事実上の弾道ミサイルを発射した。……国連安保理決議に反する暴挙である。
b)北朝鮮が「人工衛星打ち上げ」との名目で、長距離弾道ミサイルの発射を強行した。愚挙の極みである。
c)北朝鮮が「人工衛星打ち上げ」との名目で、長距離弾道ミサイルの発射を強行した。……決して許されない軍事的な威嚇である。衛星打ち上げの技術は弾道ミサイルと同じだ。
d)北朝鮮が国際社会の制止を無視し、「衛星」と称する長距離弾道ミサイルを発射した。……国連安全保障理事会が追加制裁決議を協議している最中の暴挙だ。
e) 北朝鮮が事実上の長距離弾道ミサイルの発射を強行した。先月の核実験に続く暴挙である。

 上から朝日、読売、毎日、産経、日本経済の順だが、どうしてここまで足並みがそろうのか、不思議を通り越して、滑稽なくらいだ。世界のメディアの大勢は光明星4号を「ロケット」による人工衛星打ち上げと認め、韓国でもハンギョレ、京郷新聞などが「ロケット」と表記しているのと比べると、共産党機関紙*2も含むすべての日本のメディアが「長距離弾道ミサイル」と表記し、その統一ぶりは際だって見える。
 気になるのは、米軍基地問題では日本政府に対して鋭い批判姿勢を示す沖縄タイムス』『琉球新報』の沖縄2紙までもが「弾道ミサイル」と表記している点だ。たしかに沖縄タイムスは「通告通りに飛んでくるとは限らない飛翔体を誘導弾で打ち落とすことが果たして可能だろうか」とPAC3配備に疑問を呈し、琉球新報も「(在沖米軍基地は)北朝鮮の核を抑止する上でほとんど機能しない」と述べるなど、日本政府の防衛政策を批判してはいる。しかし、在沖米軍や自衛隊の存在が相手の目にどう映っているかを抜きにして、朝鮮の「ミサイル」発射を一方的に非難する姿勢は、本土のメディアと変わらない。沖縄自身が不本意ながらもその一翼を担わされているアメリカの対朝鮮戦略を根底から問い直さない限り、基地問題解決を訴える声も説得力を削がれるのではないだろうか。

【日本メディアの一糸乱れぬ“反北朝鮮”キャンペーン、その意味は?】

 それにしても、日本のマスメディアのこの一糸乱れぬ「反朝鮮」キャンペーンは、何に起因するのか。それを解くカギとして、過去にさかのぼり、中国初の人工衛星打ち上げを論じた朝日新聞社説(1970年4月27日付)を見てみよう。

中国が人工衛星を軌道にのせ、世界で五番目の衛星打ち上げ国になった。……70年代は、米ソ以外の多くの国が宇宙開発の分野に進出する年代である。当然各国ともそれぞれ独自の宇宙開発計画を持っているだろう。領土の広い中国では通信衛星のような実用衛星の役割を相当重視していることも推測にかたくない。今回の衛星は、そうした「宇宙技術開発の順調な始まり」と見るべきであり、中国が宇宙開発のような科学技術の重要分野で多くの工業諸国に先がけて実績をあげたことには、敬意と祝意を表したい。……
 たしかに、平和利用の技術は密接に軍事技術と結びついている。今回の打ち上げも、軍事的な能力に結び付けて考えないわけにいかないことは間違いない。……
 われわれは、こうした側面からのとらえ方にはそれなりの根拠があることは認めながらも、中国が今回の成果を平和利用分野での技術発展に生かしていくことを期待しないわけにはいかない。

 当時の朝日新聞は、明確な親中国路線をとっていたので、これだけでは扱いが不公平なのは当然だと思われるかも知れない。しかし、例えば読売は「かなり以前から予想されていたことで、いまさらのように驚くことはあるまい。……中国の核の脅威を必要以上に強調して、客観的には中国を敵視することになる“力による対応策”へ国民を誘導することは、日本の安全と繁栄にとって危険な道であることを銘記しなければならない」(同年4月28日付)、毎日も「冷静に考えれば……中国が米ソの核基地をたたくだけの第一撃能力体系を持ちうるとは思われない。……いたずらな感情論や観念論に基づく論議は、決して国民の願望する本当の安全保障をもたらすものではない」と、脅威論をあおったり、制裁を主張することなく、理性的な反応を示している。
 この時の中国もすでに核実験に成功しており、東西冷戦のさなかにあって、その軍事的意味は朝鮮の衛星どころではなかったはずだ。中国は日本との国交や国連代表権も持っておらず、もちろん発射の事前通告もなかった。日本の安全保障という側面から見れば、どちらが現実的脅威かは明白だろう。とするなら、日本のメディアが朝鮮の核とロケット発射を過剰に騒ぎ立てるのは、“それが朝鮮だから”という理由が、一つの有力な仮説として浮上する。
 そこで思い出されるのが、1923年の関東大震災後に中西伊之助労働運動家、作家)が日本のメディアの朝鮮観を論じた評論である。

私は寡聞にして、未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは、殆どないと云っていいのであります。そして爆弾、短刀、襲撃、殺傷、――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人――近頃は不平鮮人と云う名称にとりかえられた新聞もあります――の不逞行動を報道しています。それも、新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。
若し、未だ古来の朝鮮について、また現在の朝鮮及朝鮮人の知識と理解のない人々や、殊に感情の繊細な婦人などがこの日常の記事を読んだならば、朝鮮とは山賊の住む国であって、朝鮮人とは、猛虎のたぐいの如く考えられるだろうと思われます。朝鮮人は、何等考慮のないジァナリズムの犠牲となって、日本人の日常の意識の中に、黒き恐怖の幻影となって刻みつけられているのであります。……私は敢えて問う、今回の朝鮮人暴動の流言蜚語は、この日本人の潜在意識の自然の爆発ではなかったか。この黒き幻影に対する理由なき恐怖ではなかったか。中西伊之助朝鮮人のために弁ず」『婦人公論』一九二三年一一・一二月合併号)

 すでに関東大震災朝鮮人虐殺から1世紀が過ぎようとしている。しかし、「北朝鮮」の「不逞行動」に対する「新聞記者の事あれかしの誇張的筆法」は今もさまざまに形を変えて再現されている。それは現実の朝鮮民主主義人民共和国ではなく、「日本人の日常の意識の中に、黒き恐怖の幻影となって刻みつけられている」“不逞鮮人”のイメージに他ならないのではないだろうか。

米津篤八・筆、イム・ギョンファ氏の訳により韓国の労働党機関誌『未来からの手紙』29号、2016年3月号に掲載。)

            • -

*1:日本のマスコミ各社はかつて朝鮮総聯との取り決めによって、記事の中で最初に「朝鮮民主主義人民共和国」という正式の国号を用い、それに続けて「北朝鮮」との呼称を使用していたが、2002年の日朝会談以降、正式名称の使用を取りやめた。しかし朝鮮側はこれに強く反発し、正式の略称は「朝鮮」または「共和国」であると主張している。実際、「北朝鮮」は朝鮮半島北部という意味に過ぎず、国名のどこにも「北」は含まれていないのだから、略称としてふさわしいとは言えない。

*2:しんぶん赤旗』の2月7日「主張」欄。朝鮮のロケット発射予告を受け、他紙の社説より1日早く掲載されたもの。

橋下知事の朝鮮学校脅迫に抗議する!

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※Kono burogu o Ro-mazi de yomitai hito wa ue no menyu- ni aru 「Roman ruby」 o kurikku site kudasai.

橋下大阪府知事大阪朝鮮高級学校を訪れ、学校関係者を脅迫したという。


「総連と断絶を」朝鮮学校視察の橋下知事、府補助に条件
http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003120415.html


府独自の補助金の支給を提案しつつ、同時にいま支給しているなけなしの補助金を打ち切ることを示唆しながら、総聯との関係断絶や、共和国指導者の肖像画を外すことを要求するのは、民族教育と思想・信条への公権力の介入であり、相手の足下を見た脅迫以外の何ものでもない。


橋下知事に断固として抗議する。
肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない。
日本人が「外させる」ことが問題なのだ。


踏み絵を踏ませ、朝鮮人を思うように操ろうとすること。それこそが朝鮮人の主体性を無視し、人間性を破壊し、民族をずたずたに分断しようとする、最悪の差別行為なのだ。


 *


1998年にHANBoard に書いた文章を思い出したので、以下、転載します。


……
Isseiさんへ----民族の誇りと人間の尊厳。
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/3986.html


Isseiさん。


#3904への回答が遅くなり、大変申し訳ありません。元のスレッドが長いので、新規のスレッドとして投稿しました。


>このサイトでもよく「愛国心」とか「民族の誇り」などと言うことについて
>議論が行われていることがありますが、
>そもそも「民族」とは「誇る」ものなのでしょうか?
>自分が日本民族であるとか朝鮮民族であるとかいうことは、
>「誇るべきもの」または「誇りに思わなければならないもの」なのでしょうか?
>それとも例によって、「そんなことは個人の自由」なのでしょうか?
>人間とはそれがないとアイデンティティを確立することができない生き物なのでしょうか?

>私自身はといえば、自分の「民族性」を「誇る」という感覚がいまいちピンときません。


私は、自分が日本民族であることを「誇り」に感じたことは一度もありません。また、「民族」に何らかのアイデンティティーを求めようとしたこともありません。「日本民族」であること----日本に生まれ、日本人の両親を持ち、日本語を話す、といった、私が持って生まれたそれらの条件は、自分で努力して勝ち取ったものでもないし、他の民族の名の下で生まれた人と比べて、誇ることも卑下することもない、単なる「違い」でしかないはずだからです。


若干の誤解を恐れずにいえば、民族というものは元来その程度のものではないか、というのが、私の基本的な考えです。


しかしそれをそのまま朝鮮人に当てはめて、「朝鮮人も民族にこだわるのはナンセンス」とは思いません。多くの日本人がそうであるように、民族によって何の差別も不利益も被ったことがなければ、民族を意識することなく暮らしていけるでしょうが、朝鮮人の多くはそういうわけにはいかないことを、私は知っています。


ましてや----このボードにもしばしばその種の投稿がありますが----自分はナショナリズムを超越したような顔をして、朝鮮人が民族にこだわらざるをえない事情を考えずに、朝鮮人ナショナリズムを遅れた偏狭なものであるかのように非難する態度は、立場性を無視した思い上がりであり、決定的な誤りであると考えます。


在日朝鮮人、うちなーんちゅ(沖縄人)、アイヌ・・・。日本政府と日本社会はこれらの人々を、出自ゆえに差別し、劣った者という烙印を押し、「日本人」になりきることを強制しています。その圧力のなかで民族性を手放してしまうことは、「日本人」になりきるということを意味し、それは自分や自分の親の歴史を否定し、自分たちが「日本人」より劣った存在だったということを、認めるということに他なりません。


例えば新井将敬の自殺は、立派な「日本人」になるために自分を否定し続け、その試みが破綻したときには、還るべき自分ももはや失っていたがゆえの、一つの悲劇でしょう。


在日朝鮮人が民族の誇りを求めるのも、民族ゆえに人間の誇りを傷つけられているからであり、「民族の復権」とは、人間の尊厳の復権に他ならない、というのが、私の見方です。そして、「民族の復権」=「人間の復権」である以上、その民族性の本質は、「朝鮮語を話し、朝鮮料理を食べ、朝鮮服を着て、長鼓を叩く」といった----ある意味で日本人にとって見えやすく、受け入れられやすい----外形的なものにあるのではなく、もっと多様で、内に秘められた、微妙なものであるはずです。


つまり在日朝鮮人にとっての「民族性」とは、例えば----私の勝手な読みかも知れませんが----以前サンハさんが#2355で主張しておられたような、


>個人的に日本で民族を継続して守っていくことは重要だと思っています。かなり
>キツイ意見なんですが、精神論だけでもある程度のことを解決できると思ってま
>す。 個人の考えをしっかり持ち続けることは重要だと思いますし、個人が在日
>の現状をしっかり認識していくことも、重要だと思います。 僕自身、まだまだ
>甘い人間なのであれこれ言えないんですが、いろんな形があるにせよ、在日コリ
>アンという自覚をもっとハッキリと持つ必要があるなと思います。


という思想の中に息づいているのではないでしょうか。そして朝鮮の歴史を学ぶことや、民族団体の役割の大事な点の一つは、状況に抗おうとする個人の内なる意思を下支えするところにあるのではないでしょうか。


Isseiさんがどのような状況で日本で暮らしておられるのか分かりませんが、朝鮮人が「民族の誇り」を回復する作業を飛び越えて、いきなり裸の個人として生きていくには、日本社会は極めて過酷な社会だと私は認識しています。


               *    *    *


ひるがえって私はといえば、「民族とは元来その程度のもの」と考えつつも、「自分は日本民族であり、日本国籍者である」ことを自覚し続けるようにしています。それは、日本という国に誇りを抱いたり、日本文化に愛着を持ったり、日本食を好んだり、というエスニックなレベルでの、いわゆるナショナリズムとは違うものです。


それは、朝鮮語を学び、在日朝鮮人と出会い、韓国を旅するなかで、感じざるをえなくなった「自分は朝鮮人でない」というネガティブな意味においてであり、あるいは沖縄基地問題に触れたときの「自分はうちなーんちゅ(沖縄人)ではない」、あるいは北海道「開拓」史をひもといたときの「自分はアイヌではない」という意識の裏返しに他なりません。


私にとって「日本民族」という言葉は、日本社会が日本民族以外にいかなる仕打ちを与えているかを常に考え続け、自分の「特権性」を見つめ、その差別性を打ち破る道を探るためのキーワードです。


最後に、『外登法おもしろ絵本』(新幹社)という本から、金恵美子さんの指紋裁判での証言を引用して、まとめに代えさせていただきます。

「14歳や16歳の時にこれ(指紋押捺*1=筆者注)をせえへんかったら警察に呼ばれ取り調べを受ける、て言われて、一人で抵抗できるこどもはほとんどおれへんと思う。
 そして強烈に抵抗感を奪って諦めさせている。それを5年ごとに繰り返すことによって、精神的に圧迫を与えている。
 生まれたときから通名を強いてきたり、ずっと歴史教育含めて在日朝鮮人朝鮮人であることを肯定できひん差別環境の中で同化(日本人化)させる。自分が自分であることを否定し続けなあかんかった中、民族性を取り戻すとゆうのは、人間としてあたりまえの自覚を持つことなんです。人間としてはじめから育ってきた人には理解できひんでしょう」

                  
以上、釈迦に説法、だったかも知れませんね。またご意見をお聞かせいただければ幸いです。

*1:在日朝鮮人朝鮮籍韓国籍)を中心とする闘いの結果、2000年4月1日に外国人登録法に基づく指紋押捺制度は全廃された。だが、日本政府は2007年11月20日から再び、特別永住者や16歳未満など一部を除くほぼすべての外国人から、入国時(再入国を含む)に指紋・顔写真の個人識別生体情報を採取する制度を開始した。

暴力と言論について――ある書物からの抜き書き

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先日、遅ればせながら、在特会の連中に常野さんがボコボコに殴られたという話を読んで*1、本来なら私もその場にいっしょにいてボコボコにされなきゃいけなかったのに、このところネットから離れていたせいで、事件そのものもしばらく知らないでいたことが自分でもふがいなく*2、何か書かなきゃと思いつつも、まとまったものを書いている時間もないので、どうしようかな、と思っていたところ、ふと本棚を見ていたら、むかし買ったこんな本があって、いま話題になっている「暴力」の問題についてピンと来る文章があったので、それを引用します。



出典:『謀略としての朝日新聞襲撃事件――赤報隊の幻とマスメディアの現在』エスエル出版会・編(1988年刊)41ページ〜



朝日新聞の内部から
A生(朝日新聞東京本社勤務)




小尻君*3の死について



・彼とは年齢も近いし、ひとごととは思えない。しかし、報道されればされるほど、彼の死は遠いところへ行ってしまう。
・まったくやりきれない出来事であるのは確かだが、その僕のやりきれなさとその後の「言論の自由を守れ」という大仰であまり中身のないスローガンとのすきまは、ずんずん広がっていくばかりだ。
・小尻君はなぜ死んだか。僕らの手の届かないところで、彼は英雄にまつりあげられ、彼の奥さんと子供はさらしものにされている。本当に彼が「言論の自由」を守るために死んだというなら、まずその「自由」の内実を問うことこそ、真先にしなければならないことではないか。
朝日新聞資本は今まで「言論の自由」を守るために命をかけたことがあっただろうか。



その後の朝日新聞



・警視庁が社内の一室を使用して、事情聴取を行っている。それに対して会社はもちろん、組合も何にも言わない。現在社屋は戒厳令状態。警備員は倍増しており、バッジの着用を社員に義務づけており*4、読者が記事に疑問があっても入ることはできない。
・ジャーナル*5で伊藤正孝編集長が、「いくらでも話は聞こう。だが殺すな」というもっともな巻頭言を書いていた。しかし、いまや記事に文句のある人が、編集部までたどりつくことはおそらく不可能だろう。
・現場は当面の忙しさにかまけていて襲撃のことを怖がっている暇はないようだ。Xデー*6も近いし。役員クラスのほうがびびっているという。ハイヤーの社旗*7もとりはずしている。


(中略)




事件の歴史的意義



朝日新聞はリベラルの代名詞のように思われているが、天皇報道については、決してサンケイ・読売にひけをとらない。新社屋完成以来、皇室三代*8が見学に招かれている事実をみても、権力側が朝日をどうみているかがわかるだろう。
・特に、今回の天皇報道はひどかった。社説では、これ以上ないやり方で天皇をほめあげていた。天皇の病気の特ダネは当然権力側のリークだろう。さっきあげたような警備の現状とあわせて考えれば、すでに守るべき言論の自由は存在しないといっていい。
・紙面では「陛下のお早いご回復を」とうたっているが、社内はすでにXデー体制に突入している。早くて、年内、遅くとも2年以内という前提で、資料を集め、予定稿を作成している。本紙・号外・雑誌の印刷スケジュールが、すでに分刻みで用意されている。つまり、民衆には天皇崇拝をおしつけておいて、自らは「不敬罪」的行為を遂行している。これほど本音とタテマエが違う業界もめずらしい。
・『ニューズウィーク』太平洋版(英語版)には、確かな筋の話として、天皇の検査結果はガンだといいきっている。それが日本版からは削除される。マスコミがよってたかって真実を隠蔽しているのだ。すでに「大本営発表」は過去のものではない。
・今度の朝日襲撃も当然、そうした状況を前提に考えねばならない。すでに守るべき「言論の自由」は存在しないこと。言論は人民の味方どころか、人民を愚弄しきっていること。マスコミは国家の暴力装置にたよらねば存立できない状況にあること。しかも、権力は現状のマスコミを守ろうとしていること。つまりマスコミ言論も非力な民衆にとっては暴力そのものであること。「言論の自由」をお題目のように唱えるまえに、この程度は考えておかないと、小尻君もうかばれまい。



言論と暴力



・暴力対言論という図式の立て方からして間違っている。
・マスコミ人はインテリが多いから、肉体への暴力には過剰に反応して騒ぎたてる。だが目に見えない暴力(核・軍隊・国家・資本等)には恐ろしく鈍感だ。たとえば、奥崎謙三の暴力は絶対にゆるせない、と筑紫哲也は強調している。しかし、奥崎の武器はせいぜいピストル一丁、しかも自分の体をはっている。自分のしたことは正々堂々と認め、責任をとっている。国家の暴力とはくらべものにならないし、国家は決して責任をとらない。考えてみれば、国家権力が味方についているのだから、マスコミがそれに責任を感じないのは当然といえる。
・暴力から言論の自由を守るといいつつ、チンピラ右翼とは桁違いに大きな暴力装置である警察によって守ってもらおうとするのは、全くもって矛盾している。
・言論も暴力だ。そう認識してこそ、言論は民衆を国家の暴力から守ることができるのだと思う。守るべき「自由」とは誰の「自由」かを冷静に見つめ、その「自由」を脅かす力には、力をもって応えなければならない。一律に全ての暴力を排すべきだ、と叫ぶことは、国家の暴力を隠蔽し、民衆の抵抗権を奪うことを意味する。近代の言論の自由も、民衆が王様の首をちょん切った日から確立されたのだ。
・マスコミ労働者のなかにはまだまだ良心的な人も多い。しかし、ぼくらは一握の砂だ。もう個人個人の良心ではなにもできない状況に来てしまっているのかもしれない。でも、ぼくはそうした流れに抗い続けたい。それこそが小尻君の死をぼくらの手にとりもどす唯一の道なのだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/toled/20090929/p1

*2:知っていたら何かできた保証もないし、その場にいたらどうしたかもわからないけど

*3:小尻知博記者。朝日新聞阪神支局に勤務していた87年5月3日、赤報隊を名乗る男に散弾銃で撃たれて死去。享年29

*4:いまでは顔写真入りのIDカードになっているとか。他の企業や役所もそうか。社会全体が戒厳令状態になったわけですね。

*5:むかし「朝日ジャーナル」という週刊誌を朝日新聞社が出しておりました。

*6:昭和天皇裕仁の死のことを、当時はこう言っていました。

*7:黒塗りのハイヤーに海軍旗みたいなのがハタハタしていた。

*8:裕仁明仁徳仁の三人。

『二等兵の手紙』と『JSA』――59年目の6・25によせて。

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映画『JSA』でいちばん胸の痛かったシーンは、仲良くなった南北の兵士が子どものようにくったくなく遊び回る場面だった。分断されていなければ、彼らは幼なじみとして、同じ学校の校庭や、村のあぜ道で、あんなふうに遊んでいたに違いない。


映画で南の兵士が北の兵士に聞かせるキム・グァンソクの『二等兵の手紙』*1。北で、南で、同じ若者が、軍に行き、貴重な青春を浪費する。そして、互いに殺し合うための訓練をする。この歌を北の兵士はどう聞いたのか。


平壌から板門店を訪れた際に聞いた、朝鮮人民軍将校の『JSA』についての感想。
http://d.hatena.ne.jp/mujige/20090525/1243237413

「ああ、『共同警備区域』のことだね。あらすじだけは聞いて知っています。でも、あんな荒唐無稽なことは起こりえないよ。それにね、あの映画には朝鮮戦争の当事者である米軍が出てこないでしょ。分断を南北の対立のせいにして、米国の責任を覆い隠そうとしているんじゃないか」


映画は観ていない、と彼は言った。しかし、彼の感想は、実に正しくこの映画の欠落を突いている。映画には米軍兵士は姿を見せず、徹頭徹尾、分断を「民族同士の悲劇」としてのみ描いている。また、キム・グァンソクの歌にしても、タレントの写真にしても、支給品のチョコパイにしても、すべての情報と物資は「南から北に」与えられる。北側がもっと「豊か」で「自由」になれば、統一が自然にやって来る、という隠れたメッセージとして受け取るのは、勘ぐりすぎなのか。


【その時の今日】北の挑発が呼んだ悲劇の6・25*2− 産業化・脱権威触媒剤の役割も(韓国・中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=117133

6・25の悽絶な記憶を常に再生する離散の苦痛も巨視的に見るとき、個人史の悲劇を超える社会的動力を新たに作ったように見える。特に大韓民国の飛躍的発展に貢献した。1950年12月3日、氷のように冷たい大同江を渡って後退する国軍に付いて平壌を発つ避難民(写真=戦争記念館)らもその同じ脈絡と見られる。戦争難民の大量発生はディアスポラ(Diaspora)の悲劇をもたらしたが、裏面では静寂な伝統的農業社会で動的な近代産業社会への変化を触発する都会化の進行を導き出した。


人間万事塞翁が馬、とでも言いたげな、この韓国の新聞記事にも、やはり朝鮮戦争の「主役」であるアメリカは出てこない。冷たい大同江を渡った難民の群れは、何から逃れようとしていたのか。その一つが、平壌に落とされると噂されたアメリカの核爆弾であったことは、「文明化」の輝きのなかに溶け込み、忘却されている。なるほど、たしかに核も文明がもたらしたものではあった。


『JSA』と、この新聞記事には、アメリカと並んでもう一つの「不在」がある。
日本だ。


朝鮮戦争で日本が果たした直接的役割――米軍の兵站、旧軍による機雷処理、仁川上陸に参加した者もいた――は言うに及ばないが、より根源的な原因を、アメリカの歴史学者ブルース・カミングスはこう指摘する。
http://d.hatena.ne.jp/ytoz/20090308

……南北いずれの側の挑発が朝鮮戦争の誘因になったかについても的外れの思い違いが横行しているように思う。私からすれば韓国の警察と軍隊が日本の手先をしていたいわば反民族的朝鮮人の手に握られていたことこそ、北に対する決定的な挑発であったように思う。韓国軍の参謀や指揮官のすべてがかつての帝国軍人であり、例えば38度線に配置されていた韓国第一師団の司令官金錫源などは、帝国軍人〔陸士第27期、陸軍大佐〕として特別に編成された金日成討伐部隊の隊長を務めた人物であった。朝鮮人としては朝鮮人同士で決着をつけるべき問題があったのであり、戦争のそもそもの始まりは日帝下の植民地時代にまで遡る。日本人が播いた種は風であったが、朝鮮人が刈り入れたのは嵐であったのだ。

――ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻より


その構図は、開戦から59年たった今も、なお変わっていない。いや、日韓米の指導者の顔ぶれを見ると、ますます明確になりつつあるように思われる。「朝鮮戦争は日本に役立った」と公言する日本の首相は、強制連行した朝鮮人の血を吸って太った炭鉱の息子である。韓国の大統領は、朝鮮戦争で米軍の建設工事を請け負って財閥へとのし上がった建設会社の元会長である。そしてアメリカに初の「黒人」大統領が誕生したのは、もちろん朝鮮戦争で“アカと勇敢に戦った”黒人兵たちの犠牲の代価である。


それらすべてを「北の核」という薄っぺらいカードが覆い隠してしまっている*3。世界にある3万発の核兵器のうち0.01%を手にしていると言われる朝鮮の指導者は、日本の植民地支配を逃れて中国に移住したパルチザンを両親に持ち、日本の討伐隊に追われてロシアの野営地で生まれ育った難民の息子であった。そして朝鮮戦争の際は再び米軍のB29による絨毯爆撃を避けて中国に疎開し、瓦礫の山となった平壌へと戻ってきたのだった。



<参考エントリー>
朝鮮民主主義人民共和国の核実験にあたってのハンクネットの声明
「核実験の日、ピョンヤンにて」―朝鮮はなぜ核実験をしたのか
人工衛星「光明星2号」の打ち上げと日本の朝鮮蔑視感情
朝鮮民主主義人民共和国の歴史的正統性に関する若干の事実確認

*1:日本語字幕入りの映像は、このページ右肩の窓にある画面で見られる。 http://www.youtube.com/watch?v=GrJMzu0eHAc 軍の慰問番組で歌う姿が若々しい。キム・グァンソクは96年に自殺した。

*2:朝鮮戦争の開戦の日。1950年6月25日

*3:そのカードを華麗に装飾するのが「唯一の被爆国」という言説である。朝鮮大学校・外国語学助教、廉文成氏はその偽善を鋭く突いている。“在日朝鮮人は、ある国の核実験には「唯一の被爆国」として、ある国の核技術に対しては「同盟国」として、都合よく立場を変えるような国に居住し、さまざまな不当な暴力に晒されている。” http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/01/0901j0622-00005.htm