人工衛星「光明星2号」の打ち上げと日本の朝鮮蔑視感情

朝鮮が人工衛星の打ち上げに成功したと、朝鮮中央通信の報道を引用する形で、朝鮮新報が速報した。


人工衛星「光明星2号」の打ち上げ成功 朝鮮中央通信社報道

 「銀河−2号」は2009年4月5日、11時20分に咸鏡北道花台郡にある東海衛星発射場から発射され、9分2秒後の11時29分2秒に「光明星2号」を軌道に正確に進入させた。


 「光明星2号」は40.6°の軌道傾斜角で、地球から最も近い距離で490㎞、最も遠い距離で1426㎞の楕円軌道を回っており、周期は104分12秒である。


 試験通信衛星である「光明星2号」には必要な測定機材と通信機材が設置されている。


 衛星は自らの軌道を正常に周回している。


 現在、衛星からは「金日成将軍の歌」および「金正日将軍の歌」のメロディーと各種測定資料が470MHzの周波数で地球上に電送されており、衛星を利用したUHF周波数帯域での中継通信が行われている。


日本政府と日本の主要メディアは、いまだに「飛翔体」「ミサイル」などの用語を使い、これが人工衛星の打ち上げであることを認めていない。さらに先ほどNHKニュースを見ていたら、街の人々にインタビューする形で「北朝鮮は何をやるかわからない」「怖いですね」などと、朝鮮に対する偏見を垂れ流している。メディア自身がそうした偏見をつくり出しているのに……。


しかし、中国・ロシアはもちろん、韓国やアメリカも、今回の朝鮮のロケット発射を、人工衛星打ち上げだと認めている。また、日本政府は安保理での非難決議を目指しているが、朝鮮の人工衛星打ち上げだけを非難することが道義上、許されないことは、朝鮮側の見解どおりだろう。


二重基準は許されない 労働新聞3月29日付

 国連安保理がこの問題を取り扱おうとするなら、公平にすべての国の衛星打ち上げを問題視するのが当然である。ここで2重性と偏見があっては絶対ならない。


 世界的に9つほどの国が現在まで数千基の衛星を打ち上げたが、安保理に持ち込まれて問題視されたことは一度もない。このような前例を持つ安保理が、われわれの衛星打ち上げに対してだけ問題視できるというのか。


この朝鮮に対する日本のダブルスタンダードを見事に暴露しているのが、来月に予定されているという、韓国の人工衛星打ち上げだ。


辺真一氏は自身のブログでこう述べている。

韓国のはOKで、北のロケットはNO!

 北朝鮮人工衛星がなぜ、問題なのか、打ち上げてはならないのかについて日本政府は「人工衛星であっても、打ち上げる発射推進体がミサイルと技術的に同じで、ミサイルへの軍事転用が可能だから」「弾頭に核弾頭を装着すれば、大陸弾道ミサイルになるから」と説明している。日本国民向けなら、これ以上の説明はいらない。しかし、常識的に考えると、そうだとするならば、これは何も北朝鮮に限った話しではない。ロケットイコールミサイルという捉え方をするならば、日本のロケットも、また来月発射を予定している韓国の人工衛星も問題になってくる。


 例えば、韓国は来月に自前の小型衛星発射体(上記の写真=模型)を使って科学技術衛星2号を宇宙に打ち上げる予定になっている。発射場所は日本に最も近い韓国最南端、全羅南道高興の羅老からだ。韓国初の衛星実験である。


 韓国のロケットは九州と沖縄の間を飛んでくるが、北朝鮮のミサイル同様にトラブルが発生すれば、軌道を外れて鹿児島など日本列島あるいは日本の領海に落下するかもしれない。過去に経験したことのある北朝鮮と違って、韓国は「初体験」である。日本にとってのリスクという点では北朝鮮のそれよりも韓国のほうが高い。それでも日本には迎撃の動きはない。どうしてだろうか?


辺真一氏は、「韓国のそれはOKで、北朝鮮のそれはNOというのは、ダブルスタンダードのような気がしてならない。」と控えめに書いているが、ダブルスタンダードそのものである。


このような偏見と敵意に満ちた報道に煽られる形で、すでに右翼が朝鮮総聯の各施設に脅迫を加えているという情報もある。


朝鮮新報コラム「春夏秋冬」

問題は、06年の核実験成功の際と同様、今後の日本の対応だ。すでに右翼勢力は総聯の各機関に対する脅迫などを行っており、朝鮮学校の生徒に対する嫌がらせや暴行がいつまた起こるとも限らない。同じ過ちを繰り返すだけ袋小路に迷い込むということを肝に銘じるべきだ。


折悪しく、朝鮮学校はちょうど入学式を終え、新学期が始まる時期だ。各朝鮮学校の関係者は、子どもたちを日本人による暴行から守るために、対策に追われている。


朝鮮人として胸を張って朝鮮学校の門をくぐる子どもたちが、安心して勉強や遊びに励めるような社会を、私たち日本人は作っていくべきではないか。それが朝鮮を植民地として、朝鮮人から名前を、言葉を、財産を、誇りを、命を奪った日本人としての、まっとうな責任の取り方ではないか。


最後に、mujigeの資料庫から、98年の光明星1号(日本では「テポドン」と呼ばれている)打ち上げに際して書いた記事の一部を、やや長くなるが、抜粋しておく。特に引用部分の森崎和江の言葉は、何度も噛みしめておきたい。


それにしても、あれから10年たっても、日本の状況がまったく変わっていない(というより、悪化している)ことに愕然とするしかない。


ルールと差別----あるいは、人工衛星と金嬉老事件。

第三に、今回の騒ぎの裏には、日本人の朝鮮蔑視があります。


まず、9月5日の朝日新聞の社説から、一部を引用します。

 

国際協調による関与こそ 北朝鮮政策


この隣国と、いったいどうやって付き合っていったらいいのだろう。


朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)による新型ミサイルの発射実験をきっかけに、多くの日本人が、あらためて考え込んでしまったに違いない。


「我々の自主権に属する」「日本がせん越に口出しする性格の問題ではない」。北朝鮮当局の声明は、実験をそう論評した。日本政府の抗議や衆参両院の決議を無視し、あえて日本人の感情を逆なでするかのような姿勢である。(中略)


北朝鮮人工衛星だったとしている。にわかには信じがたいが、かりにそうだとしても、軍事的な危険性に変わりはない。


日本がしなければならないことは、まずミサイルの開発、実験、配備、輸出に対する抗議の意思を、あらゆる機会と場所をとらえて北朝鮮に伝えることだ。


政府は、日朝国交正常化交渉の再開と、食糧支援、北朝鮮に対する軽水炉の提供事業への協力を、当面凍結することを決めた。平壌と名古屋の間のチャーター便の運航も認めないこととした。


北朝鮮に日本の強い意思を示し、真剣な対応を迫るには、妥当な措置である。日本の安全や地域の平和を脅かすような行動が、経済的に割にあわない結果となることを、具体策で示すことが必要だ。


次は、中国の人工衛星打ち上げを論じた、70年4月27日の朝日の社説(抜粋)です。

中国の人工衛星成功に寄せて


中国が人工衛星を軌道にのせ、世界で五番目の衛星打ち上げ国になった。(中略)


七〇年代は、米ソ以外の多くの国が宇宙開発の分野に進出する年代である。当然各国ともそれぞれ独自の宇宙開発計画を持っているだろう。領土の広い中国では通信衛星のような実用衛星の役割を相当重視していることも推測にかたくない。


今回の衛星は、そうした「宇宙技術開発の順調な始まり」と見るべきであり、中国が宇宙開発のような科学技術の重要分野で多くの工業諸国に先がけて実績をあげたことには、敬意と祝意を表したい。(中略)


たしかに、平和利用の技術は密接に軍事技術と結びついている。今回の打ち上げも、軍事的な能力に結び付けて考えないわけにいかないことは間違いない。(中略)


われわれは、こうした側面からのとらえ方にはそれなりの根拠があることは認めながらも、中国が今回の成果を平和利用分野での技術発展に生かしていくことを期待しないわけにはいかない。(後略)


この頃の朝日新聞は、明確な親中国路線をとっていたので、これだけでは扱いが不公平なのは当然だと思われるかも知れません。


しかし、例えば読売は「かなり以前から予想されていたことで、いまさらのように驚くことはあるまい」「中国の核の脅威を必要以上に強調して、客観的には中国を敵視することになる“力による対応策”へ国民を誘導することは、日本の安全と繁栄にとって危険な道であることを銘記しなければならない」(同年4月28日)、毎日も「冷静に考えれば…中国が米ソの核基地をたたくだけの第一撃能力体系を持ちうるとは思われない」「いたずらな感情論や観念論に基づく論議は、決して国民の願望する本当の安全保障をもたらすものではない」と、今回のケースとは違い、日本への脅威論をあおったり、制裁を主張することなく、理性的な反応を見せています。


中国のロケットが日本上空を飛び越えなかったから? でも、この時の中国はすでに核実験に成功しており、日本全域が中国の核ミサイルの射程に入ったという意味では、その軍事的意味は朝鮮の衛星どころではありません。当時中国は、日本と国交はなかったし(日本政府の言い分では「中国共産党が不法に支配」していたわけですね)、国連にも代表権はありませんでした。


もちろん発射の事前通告はありませんでした。各紙が強調する日本の安全保障の側面から見れば、どちらが現実的脅威かは明白でしょう。


さらに最近の例でいえば、中国が台湾付近にミサイルを打ち込んだとき、沖縄の漁民は何日間も出漁を見合わせなければならず、日本人の実生活には「テポドン」とは比べものにならないほどの影響がありました。にも関わらず、中華学校の生徒が襲われたとかいう話は、まったくありません。


こうやってさまざまな角度から検討すると、やはり今回の日本の反応は、たとえそれが国際ルールに反し、危険を伴うものであったとしても、尋常ではないことがお分かりになると思います。


大国へのおもねり、小国への蔑視、朝鮮支配の未清算、本土重視と沖縄差別…。「テポドン」騒ぎは、日本社会に蔓延する矛盾が絡み合って噴き出した日本人自身の問題でもあることを見つめなければ、何度でも形を変えて繰り返されることでしょう。


***


この投稿を書いていて再び思い起こされたのが、#5215でも紹介した森崎和江『二つのことば・二つのこころ』の、次のような一節です。森崎は金嬉老事件によせて、「私は人質の位置にいた」と前提した上で、こう書いています。

それは、日本人は誰でも、あるとき、ふいに個人的な理由なしに、朝鮮人によって人質とされて、なんのふしぎもないといいたいためだ。しばしばそうなるであろうことを指摘しておきたいからだ。人質とは、朝鮮人の主体性にとりおさえられる状態である。けれどもまた、朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由----つまり生命の危機感とひきかえに自己の朝鮮を掘り起こす自由----を確保する。


日本人は犯罪の有無にかかわらず、人質として日本人が朝鮮人の主体性にとりおさえられることを、ふつごうだと考える。それは日本の大衆にとって、ごく自然な発想である。そしてまた日本の支配意識も、さようなことはふつごうだと考えるが、それはいささか不自然な反応である。その意識は反応の立脚点を心さわがしく探さねばならない。


ではもし、中国人が日本人大衆を人質にしたらどうだろう。朝鮮と中国は、ともに日本国が侵略の対象とした相手である。が大衆の両者に対する感情にはかなりの差があるのだ。


私は朝鮮語の本を時折電車のなかで開くことがある。……或るとき誰かが声をかけた。「なぜ朝鮮語の勉強をなさるのですか。どうせやるなら中国語がよくはありませんか」この反応は大衆の気持ちをよくあらわしている。もしこれら大衆が中国人の手で人質になったなら、やはり不都合なことだと大衆一般は反応するだろうか。


金嬉老の孤独な戦いから、30年の歳月が流れました。金嬉老はいまも無期懲役囚として獄中にあり、オモニは11月4日、息子の出獄を待つことなく、亡くなりました。


金嬉老事件と朝鮮の衛星打ち上げは、もちろん全然関係のない、別々の出来事です。しかし、30年の時を隔てたこれら二つの出来事に接したときに、日本人の心にわき起こった感情が、全然別種のものだとも、私にはどうしても思えないのです。


朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由」を、いまだに日本人は確保できていないことが、再び露呈してしまったのではないか。それゆえに金嬉老はいまも日本の最長期囚として獄にあらねばならないのではないか。


政治家とマスコミが騒げば騒ぐほど、そんな苦い思いがこみ上げてくるのです。


(注)金嬉老氏は1999年9月7日、一度も見たことのない“祖国”、韓国に「帰国」することを条件に、仮釈放された。事件から31年目のことだ。


<追記>2009/04/06

この記事のアップ後、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は人工衛星打ち上げ失敗との見方を発表しました。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090405-00000110-jij-int
それを受けて、タイトルを一部変更しました。元のタイトルは『人工衛星光明星2号」の打ち上げ成功と日本の朝鮮蔑視感情』です。