橋下知事の朝鮮学校脅迫に抗議する!

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橋下大阪府知事大阪朝鮮高級学校を訪れ、学校関係者を脅迫したという。


「総連と断絶を」朝鮮学校視察の橋下知事、府補助に条件
http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003120415.html


府独自の補助金の支給を提案しつつ、同時にいま支給しているなけなしの補助金を打ち切ることを示唆しながら、総聯との関係断絶や、共和国指導者の肖像画を外すことを要求するのは、民族教育と思想・信条への公権力の介入であり、相手の足下を見た脅迫以外の何ものでもない。


橋下知事に断固として抗議する。
肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない。
日本人が「外させる」ことが問題なのだ。


踏み絵を踏ませ、朝鮮人を思うように操ろうとすること。それこそが朝鮮人の主体性を無視し、人間性を破壊し、民族をずたずたに分断しようとする、最悪の差別行為なのだ。


 *


1998年にHANBoard に書いた文章を思い出したので、以下、転載します。


……
Isseiさんへ----民族の誇りと人間の尊厳。
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/3986.html


Isseiさん。


#3904への回答が遅くなり、大変申し訳ありません。元のスレッドが長いので、新規のスレッドとして投稿しました。


>このサイトでもよく「愛国心」とか「民族の誇り」などと言うことについて
>議論が行われていることがありますが、
>そもそも「民族」とは「誇る」ものなのでしょうか?
>自分が日本民族であるとか朝鮮民族であるとかいうことは、
>「誇るべきもの」または「誇りに思わなければならないもの」なのでしょうか?
>それとも例によって、「そんなことは個人の自由」なのでしょうか?
>人間とはそれがないとアイデンティティを確立することができない生き物なのでしょうか?

>私自身はといえば、自分の「民族性」を「誇る」という感覚がいまいちピンときません。


私は、自分が日本民族であることを「誇り」に感じたことは一度もありません。また、「民族」に何らかのアイデンティティーを求めようとしたこともありません。「日本民族」であること----日本に生まれ、日本人の両親を持ち、日本語を話す、といった、私が持って生まれたそれらの条件は、自分で努力して勝ち取ったものでもないし、他の民族の名の下で生まれた人と比べて、誇ることも卑下することもない、単なる「違い」でしかないはずだからです。


若干の誤解を恐れずにいえば、民族というものは元来その程度のものではないか、というのが、私の基本的な考えです。


しかしそれをそのまま朝鮮人に当てはめて、「朝鮮人も民族にこだわるのはナンセンス」とは思いません。多くの日本人がそうであるように、民族によって何の差別も不利益も被ったことがなければ、民族を意識することなく暮らしていけるでしょうが、朝鮮人の多くはそういうわけにはいかないことを、私は知っています。


ましてや----このボードにもしばしばその種の投稿がありますが----自分はナショナリズムを超越したような顔をして、朝鮮人が民族にこだわらざるをえない事情を考えずに、朝鮮人ナショナリズムを遅れた偏狭なものであるかのように非難する態度は、立場性を無視した思い上がりであり、決定的な誤りであると考えます。


在日朝鮮人、うちなーんちゅ(沖縄人)、アイヌ・・・。日本政府と日本社会はこれらの人々を、出自ゆえに差別し、劣った者という烙印を押し、「日本人」になりきることを強制しています。その圧力のなかで民族性を手放してしまうことは、「日本人」になりきるということを意味し、それは自分や自分の親の歴史を否定し、自分たちが「日本人」より劣った存在だったということを、認めるということに他なりません。


例えば新井将敬の自殺は、立派な「日本人」になるために自分を否定し続け、その試みが破綻したときには、還るべき自分ももはや失っていたがゆえの、一つの悲劇でしょう。


在日朝鮮人が民族の誇りを求めるのも、民族ゆえに人間の誇りを傷つけられているからであり、「民族の復権」とは、人間の尊厳の復権に他ならない、というのが、私の見方です。そして、「民族の復権」=「人間の復権」である以上、その民族性の本質は、「朝鮮語を話し、朝鮮料理を食べ、朝鮮服を着て、長鼓を叩く」といった----ある意味で日本人にとって見えやすく、受け入れられやすい----外形的なものにあるのではなく、もっと多様で、内に秘められた、微妙なものであるはずです。


つまり在日朝鮮人にとっての「民族性」とは、例えば----私の勝手な読みかも知れませんが----以前サンハさんが#2355で主張しておられたような、


>個人的に日本で民族を継続して守っていくことは重要だと思っています。かなり
>キツイ意見なんですが、精神論だけでもある程度のことを解決できると思ってま
>す。 個人の考えをしっかり持ち続けることは重要だと思いますし、個人が在日
>の現状をしっかり認識していくことも、重要だと思います。 僕自身、まだまだ
>甘い人間なのであれこれ言えないんですが、いろんな形があるにせよ、在日コリ
>アンという自覚をもっとハッキリと持つ必要があるなと思います。


という思想の中に息づいているのではないでしょうか。そして朝鮮の歴史を学ぶことや、民族団体の役割の大事な点の一つは、状況に抗おうとする個人の内なる意思を下支えするところにあるのではないでしょうか。


Isseiさんがどのような状況で日本で暮らしておられるのか分かりませんが、朝鮮人が「民族の誇り」を回復する作業を飛び越えて、いきなり裸の個人として生きていくには、日本社会は極めて過酷な社会だと私は認識しています。


               *    *    *


ひるがえって私はといえば、「民族とは元来その程度のもの」と考えつつも、「自分は日本民族であり、日本国籍者である」ことを自覚し続けるようにしています。それは、日本という国に誇りを抱いたり、日本文化に愛着を持ったり、日本食を好んだり、というエスニックなレベルでの、いわゆるナショナリズムとは違うものです。


それは、朝鮮語を学び、在日朝鮮人と出会い、韓国を旅するなかで、感じざるをえなくなった「自分は朝鮮人でない」というネガティブな意味においてであり、あるいは沖縄基地問題に触れたときの「自分はうちなーんちゅ(沖縄人)ではない」、あるいは北海道「開拓」史をひもといたときの「自分はアイヌではない」という意識の裏返しに他なりません。


私にとって「日本民族」という言葉は、日本社会が日本民族以外にいかなる仕打ちを与えているかを常に考え続け、自分の「特権性」を見つめ、その差別性を打ち破る道を探るためのキーワードです。


最後に、『外登法おもしろ絵本』(新幹社)という本から、金恵美子さんの指紋裁判での証言を引用して、まとめに代えさせていただきます。

「14歳や16歳の時にこれ(指紋押捺*1=筆者注)をせえへんかったら警察に呼ばれ取り調べを受ける、て言われて、一人で抵抗できるこどもはほとんどおれへんと思う。
 そして強烈に抵抗感を奪って諦めさせている。それを5年ごとに繰り返すことによって、精神的に圧迫を与えている。
 生まれたときから通名を強いてきたり、ずっと歴史教育含めて在日朝鮮人朝鮮人であることを肯定できひん差別環境の中で同化(日本人化)させる。自分が自分であることを否定し続けなあかんかった中、民族性を取り戻すとゆうのは、人間としてあたりまえの自覚を持つことなんです。人間としてはじめから育ってきた人には理解できひんでしょう」

                  
以上、釈迦に説法、だったかも知れませんね。またご意見をお聞かせいただければ幸いです。

*1:在日朝鮮人朝鮮籍韓国籍)を中心とする闘いの結果、2000年4月1日に外国人登録法に基づく指紋押捺制度は全廃された。だが、日本政府は2007年11月20日から再び、特別永住者や16歳未満など一部を除くほぼすべての外国人から、入国時(再入国を含む)に指紋・顔写真の個人識別生体情報を採取する制度を開始した。