在日朝鮮人の民族性と帰化について――あるいは、誰が朝鮮人か
※このブログには ときどき 漢字(かんじ)が つかわれています。漢字(かんじ)の にがてな ひとは うえの メニューに ある 「ひらがなルビ」をクリックしてください。
※Kono burogu o Ro-mazi de yomitai hito wa ue no menyu- ni aru 「Roman ruby」 o kurikku site kudasai.
id:F1977さんのエントリー とりあえず、深呼吸しましょう。 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜 のブコメで、id:s-ryooさんと次のようなやりとりがありました。
s-ryooさん
在日コリアン≠コリアンだと思います。日常的に日本語を話し日本語で考える在日コリアンが実体としてコリアンよりは日本人に近いのは当然です。コリアンでもなく日本人でもない在日コリアンの主体性確立を願います。
mujige
在日朝鮮人が日本語を話し、民族性が外見上「薄い」のは、自然の結果ではなく日本の同化圧力・民族教育弾圧のせいだ。そうした在日文化を本国と切り離すのでなく、そこも含み込んで朝鮮の民族性を再構築してほしい。
それに対して、さらにs-ryooさんから、わたしのエントリー タケダ君の「リムジン江」――내 인생을 바꾼 노래 に、次のようなコメントをいただきました。
s-ryooさん
F1977さんのブックマークでのコメントの補足を。
在日コリアンが三世四世となるにつれて朝鮮半島のコリアンとは実体において離れたものになって行くのは、むしろ自然なことではないでしょうか。
高史明氏も「在日する限り朝鮮人としての実体を獲得する事は不可能だ」と述べておられます。
この事を否定的に捉えてしまうと、在日コリアンは「コリアンになりきれないコリアン」というコンプレックスに苦しむ事になってしまいます。
コリアンでも日本人でもない在日コリアンとしての主体性を確立して、韓国・北朝鮮と日本の架け橋となる道を探る事はコンプレックスからの解放の為にも必要だと思います。
本国を離れた民族集団の文化が現地の影響を受け、しだいに変化していくことは、ある意味「自然」なことかも知れません。しかし、在日朝鮮人のばあい、その言語や名前などの文化は、けっして「自然に」失われたわけではありません。
そのことは、たとえば民族教育が保障されている中国朝鮮族や、朝鮮学校出身で総聯コミュニティー内部にいる朝鮮人と、日本学校を出て日本社会のなかで「分子化」されている朝鮮人とを比べて見てもわかると思います。
こうした社会的条件を無視して、在日朝鮮人の文化変容を「自然なこと」と一般化してしまうことは、日本政府の民族弾圧政策を追認し、免罪符を与えしまうことにつながると思っています。たとえば、在日朝鮮人が日本語を話すことについても、それは決して「当たり前」でも「自然」なことでもなく、「わたしたち日本人が朝鮮人に日本語を使わせているのだ」という意識を持っておくべきだと考えています。
一方、それと一見矛盾するように思われるかも知れませんが、わたしは、言語、名前、食事、国籍、文化などの目に見える部分だけが朝鮮人の民族性だとは思っていませんし、そうした目に見える部分が「朝鮮人としての実体」だとも思っていません。つまり、朝鮮語ができないから、文化を知らないから、キムチを食べないから、日本国籍だから「コリアンになりきれない」とは思わないのです。
さらにs-ryooさんの主張でわたしが違和感を覚えるのは、朝鮮人の定義を誰が決めるのか、という問題です。
なぜ日本人であるわたしたちに、誰が本物の朝鮮人かを決める権利があるのでしょうか。また、なぜ日本人に朝鮮人と祖国を切り離す権利があるのでしょうか。さらに、これはid:rubio1919さんもコメント欄で提起されていましたが、なぜ日本人に「韓国・北朝鮮と日本の架け橋となる道を探る」ような生き方を朝鮮人に要求する権利があるのでしょうか。
たとえば、どこかに「本物の朝鮮人」がいるとしましょう。それはどこの朝鮮人でしょうか? ソウルの朝鮮人(韓国人)ですか? それとも平壌の朝鮮人ですか? 済州島の朝鮮人ですか? また、朝鮮の言語や文化も、朝鮮王朝の時代と、日帝植民地期と、解放後とで大きく変化していますが、どの時代の朝鮮人が本物の朝鮮人なのでしょうか? さらに、いまは朝鮮半島は南北に分断されて、南と北で言葉や風俗に多少の違いがあります(これもどちらが本物かを決めることなどできません)が、統一朝鮮が成立すれば、それもまた大きな変化が起こることでしょう。
このように、地域によって、時代によって、さまざまな朝鮮人がいるのに、どこの、いつの朝鮮人が本物かを問うことは、ナンセンスではないでしょうか。コンプレックスで苦しむ朝鮮人がいるとしたら、それは「誰が朝鮮人か」という定義がそもそも間違っているからではないのでしょうか。
また、在日朝鮮人を祖国と切り離された存在だと定義した場合、祖国とのつながりを大切にしたい人は、どうしたらいいのでしょうか。親子で、兄弟で、親戚で、国境をまたいで生きている朝鮮人はいくらでもいます。それなのに、在日か祖国かのどちらかを選ばないといけない、というのは、変ではありませんか?
むしろ、極論めいたことを言えば、「朝鮮人になりたい」と思っていることこそが、朝鮮人の朝鮮人たるゆえんではないか、という気すらするのです。つまり、朝鮮や韓国に「本物の朝鮮人」がいるわけではなく、元山でわたしが出会った男の子のように、朝鮮人になろうとする過程(これを「統一」と言い換えてもいいかもしれません)こそが、朝鮮人の民族性というものではないか、と。
ですから、ひとつの朝鮮人のプロトタイプがあって、そこから遠いか近いかで民族性を測るのではなく、ソウルの朝鮮人も、平壌の朝鮮人も、済州島の朝鮮人も、猪飼野の朝鮮人も、荒川の朝鮮人も、朝鮮語ができようができまいが、キムチを食べようが食べまいが、国籍が朝鮮であろうが、韓国であろうが、日本であろうが、みな等しく本物の朝鮮人であり、そうしたさまざまな朝鮮人を含み込んだかたちで、朝鮮民族というものが再構築されるべきではないのか、いや、これはわたしの希望ではなく、論理的に考えても、それ以外には統一した朝鮮民族というものはありえないのではないか、と思うのです。
実際、わたしが知っている朝鮮人で、「本物でない」朝鮮人など一人もいません。
次にid:rubio1919さんのコメントにお答えしたいと思います。
わたしは前エントリー タケダ君の「リムジン江」――내 인생을 바꾼 노래 で次のように書きました。
mujige
帰化は差別する側になること、という言葉は厳しいが論理的に正しい。日本人は朝鮮人に対して差別者なのだから。帰化は「個人的解決」の道ではあるが、それを朝鮮人に「選ばせている」のは実は日本の側なのだ。
もともとid:F1977さんのエントリー 「帰化」について - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜 に対するブックマークコメントだったため、かなり単純化した、乱暴な文章だったにもかかわらず、これに対してrubio1919さんから次のようなご丁寧な反論のコメントをいただきました。
rubio1919さん
「帰化は差別する側になる」という言葉が持つ意味の解釈はとても難しいです。 正しいような気もするし、屁理屈のような気もする。 その言葉を発した人の心情を察すれば、「朝鮮人に対する差別者としての日本人」になることの抵抗を言っているのだろうと思う。 しかし、もしその人が、差別を避けるために日本名(いわゆる通名)を使っているのであれば、何のためにそうしているのか。 もし、差別を避けるために日本名を使っているのなら、差別を避けるために「帰化」をする論理と、どれほどの差があるのだろうか。
私は、結論を言えば、「帰化は差別する側になる」というのは、論理的に間違いだと感じています。 「差別する側」とは、実際に差別する人、差別を支持する人、差別は仕方がないと思っている人、自分は差別しないが差別に対して何もしない人、差別に対して問題意識も何もない人、であって、そうでない限り、差別される側の人間が差別を回避するためにとる行動自体が「差別する側になる」ことなどでは毛頭ない、ということは自明のことだと思っています。
まず、ここでいう「差別者」(あるいは「差別する側」)という言葉について、もう少しくわしく説明したいと思います。
わたしは「差別者」と「差別主義者」とは違うものと考えています。「差別者」は、社会的な差別構造上、形式的に差別する側に振り分けられた者を指し、「差別主義者」は、その差別の構造の上にあぐらをかいて、差別のある現状を放置し、あるいは積極的に被差別集団に対して差別的行為を行う者を指します。
つまり、rubio1919さんのおっしゃる「実際に差別する人、差別を支持する人、差別は仕方がないと思っている人、自分は差別しないが差別に対して何もしない人、差別に対して問題意識も何もない人」というのは、わたしの定義でいえば、「差別主義者」ということになります。
もしかしたら、rubio1919さんとわたしの言葉の定義が違うだけで、認識はさほど変わらないかもしれないという気もしているのですがですが、このことに関連してid:hituzinosanpoさんが非常に丁寧な説明をされていますので、こちらもご参照いただければと思います。
以上をふまえたうえで、たとえば、参政権のことについて考えてみましょう。参政権は国籍によって線引きをした、構造的差別です。
はてなハイクで、わたしは次のように書きました。
http://h.hatena.ne.jp/mujige/9234087094776331455
かいちゅう・せんせい(回虫先生)の「選挙制度について」は、せんきょに いくことが じつは さべつ せいどに くみする ことではないのか、という ラジカルな といかけだ。
せんきょけんの ない 「がいこくじん」を かぞくに もつ わたしにとって、せんきょの きせつは くつうでしかない。
1つう しか こない 「とうひょうじょ・にゅうじょう・せいりけん(投票所入場整理券)」は、いえの なかに ひかれた こっきょうせんだ。
はん・たいせい(反体制)の せいとうも なくなった いま、せんきょは 「にほんこく への しんにん とうひょう」でしかない……。
それに対して、ある人からつぎのような反応がありました。
http://h.hatena.ne.jp/big_song_bird/9234280608930228099
参政権が欲しければ国籍を取り給え
わたしは「外国人」に対して「差別者」です。それは国籍による差別という構造のなかで好むと好まざるにかかわらず、日本国籍保持者としての「特権」を持たされてしまっており、国籍差別の構造が変わらないかぎり、わたしが「差別する側」に立ってしまうことは、個人の良心のレベルでは変えられないからです。良心の痛みをなくそうとするなら、構造そのものを変えるために行動するしかありません。
一方、「参政権が欲しければ国籍を取り給え」とわたしに突っかかってきた人は、「差別主義者」です。国籍差別の現状を肯定し、固定化し、それにのっかって差別者として現在持っている優越性(特権)を守ろうとしているからです。
以上のように、国籍という線を基準に見れば、 「アプリオリ(先天的)な帰化者(=日本人)」であれ、「アポステリオリ(後天的)な帰化者」(by id:tmsigmundさん)であれ、“差別者の側に立たされてしまっている”というのが、わたしの認識です。
その一方で、たとえば戸籍を基準にみれば、わたしのような「アプリオリな帰化者」と、rubio1919さんのような「アポステリオリな帰化者」のあいだには明確な線が引かれて、差別者-被差別者の関係をつくり出しています。わたしは前エントリーで「朝鮮人の日本国籍の取得は、植民地主義や民族差別問題の解決にはつながらない」と書きましたが、戸籍制度(と、それに支えられる天皇制)の存在が、その理由のひとつです。
もうひとつ、rubio1919さんが提起された「日本名を使っているのなら、差別を避けるために「帰化」をする論理と、どれほどの差があるのだろうか」という論点も、非常に重要だと考えます。
日本名(通名)か朝鮮名(本名)か、という選択をめぐる関係性は、国籍という線を基準にした差別−被差別という関係とは、同じではありませんが、また違った問題があるように思います。
たとえば、こんな視点があります。
恵まれし子らの自己責任
カミングアウトをしないことは、自分を偽っているだけではありません。
普通という安全圏に身を置きたがるということなのです。
普通でありたがることは何故悪くないと言えるのでしょう。
差別への貢献やファシズムへの貢献が悪いことであるならば、普通でありたがることは悪いでしょう。
普通という権力の範囲内で経験を積むほど、視野は狭まっていきます。
それしか道は有り得ないと思い込むようになっていきます。
【中略】
カミングアウトをすることは、権力からの保護を放棄する選択。
カミングアウトをしないことは、権力からの保護を受けることの選択。
しかし、カミングアウトをする責任は問われ、カミングアウトをしない責任は回避され、更に、その責任回避を可能にしているのは、抑圧する者の権力です。
もちろん、差別を逃れるために通名を使わざるを得ないような状況に責任のある、しかもカミングアウトすることすら必要のない「アプリオリな帰化者」が、朝鮮人に対して「通名を捨てて本名を名乗れ」などと言う権利はありません。
ただ、通名か本名かの選択をめぐって(その選択も、実は「自由な選択」などではなく、日本人の側が強制的に選択肢を与えている=脅迫しているわけですが)、それは単に個人的な問題解決というにとどまらない広がりを持っていることは、確認しておきたいと思います。